無料で使える動画編集ツールは危険?

dinosaur

アップロードは完了しました

 送信が完了しました。

 画面の中央に、そう表示されていた。

 私はマウスから手を離した。

 終わった。

 やっと終わった。

 午前一時四十七分。アパートの部屋には、ノートパソコンのファンが回る音と、冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえていた。

 私は椅子の背もたれに体を預け、目を閉じた。

 ここ数日、ずっと動画を作っていた。

 ある大企業から頼まれた仕事だった。正式な採用が決まっていたわけではない。私はまだ大学生で、開発の仕事を少しずつ覚えている最中だった。知り合いを通じて、ある新規サービスの紹介動画を作る機会をもらったのだ。

 うまくいけば、次の仕事につながる。

 そう思うと、多少の無理も苦ではなかった。

 動画には、開発中のアプリの画面が映っていた。操作方法を説明するための録画だったが、撮影した画面には余計なものまで写り込んでいた。

 テスト用のアカウント名。

 開発中の機能。

 まだ一般には公開されていない設定画面。

 それから、画面の端に一瞬だけ表示された、社内用の管理番号。

 私はそれらを隠すために、無料の動画編集サイトを使った。

 ソフトをパソコンにインストールする必要がない。会員登録も簡単。ブラウザに動画を放り込んで、隠したい部分に四角い図形を重ねるだけ。

 最初は、少し不安だった。

 こんなに簡単で、本当に無料なのだろうか。

 けれど、検索すると同じサービスを紹介する記事がいくつも見つかった。動画編集の初心者にもおすすめ。高性能。安全なオンライン編集。そんな言葉が並んでいた。

 私は安心した。

 少なくとも、そのときは。

 編集画面に動画を読み込ませると、アップロードの進捗を示すバーが伸びていった。

 十二パーセント。

 三十七パーセント。

 六十八パーセント。

 百パーセント。

 その間、私はスマートフォンを眺めていた。友達から届いたメッセージに返信し、明日の予定を確認し、動画の仕上がりについて考えていた。

 自分の動画が、どこへ送られているのか。

 そんなことは、考えもしなかった。

 編集画面には、撮影した動画がそのまま表示されていた。私は必要な場所にモザイクをかけ、確認して、書き出しボタンを押した。

 出来上がった動画は、きれいだった。

 隠したいものは見えなくなっていた。

 これなら提出できる。

 私は完成した動画を再生し、問題がないことを確認した。元のファイルは念のため残しておこうと思ったが、パソコンの容量が少なくなっていたので、後で整理することにした。

 そして、提出先の大企業が指定したシステムへ、完成した動画を送信した。

 そこまで終わって、私はようやく眠れると思った。

 午前一時五十二分。

 私は何気なく、さっき使った動画編集サイトの利用規約を開いた。

 なぜ、そんなことをしたのかはわからない。

 提出を終えた安心感で、ようやく余裕ができたからかもしれない。

 あるいは、ほんの小さな違和感が、ずっと頭の片隅に残っていたのかもしれない。

 規約の文章は長かった。

 私は最初の数段落を読み飛ばし、検索機能で「アップロード」「保存」「削除」という言葉を探した。

 そして、ある一文で手が止まった。

 アップロードされたコンテンツは、サービスの提供、維持、改善などの目的で処理される場合があります。

 私は、その文章を二度読んだ。

 さらに読み進めた。

 データの処理方法や保存期間については、プライバシーポリシーを参照してください。

 私は別のページを開いた。

 難しい言葉が並んでいた。データ処理。外部委託先。サービス改善。保持期間。

 何が書いてあるのか、すぐには理解できなかった。

 けれど、ひとつだけ、急に気になった。

 私は、どうやって動画にモザイクをかけたのだろう。

 パソコンの中で処理したのか。

 それとも、サイトのサーバーに動画を送って、そこで処理したのか。

 私は編集画面を開き直した。

 動画の読み込みは、たしかにアップロードだった。

 ファイルを選択したあと、進捗バーが伸びていた。

 あれは、何を意味していたのだろう。

 私は検索窓に文字を打ち込んだ。

 「ブラウザ 動画編集 ローカル処理」

 検索結果を開く。

 次のページを開く。

 また次を開く。

 オンライン動画編集ツールの多くは、クラウド上で動画を処理する場合がある。サービスによっては、元の動画をサーバーへアップロードする必要がある。

 私は椅子から背中を離した。

 自分が使ったサービスが、具体的にどのような処理をしていたのかは、まだわからなかった。

 規約にも、すべての動画がどこに、どのくらい保存されるのか、私が知りたい形では書かれていなかった。

 それなのに。

 私は、もう送ってしまっていた。

 私は急いで編集サイトに戻った。

 アップロードした動画を削除する項目を探した。

 プロジェクト一覧。

 保存済みの編集データ。

 最近使用したファイル。

 それらしいメニューをひとつずつ開いたが、削除ボタンは見つからなかった。

 そもそも、私が使ったのはアカウント登録をしなくても使えるサービスだった。

 画面を閉じれば、プロジェクトも消えると思っていた。

 ブラウザのタブを閉じた。

 もう一度開いた。

 編集画面は初期状態に戻っていた。

 それを見て、私は一瞬だけ安心した。

 しかし、すぐに気づいた。

 画面から消えたことと、サーバーから削除されたことは、同じではない。

 私はスマートフォンを手に取った。

 午前二時十一分。

 提出先の担当者から、メッセージが届いていた。

『動画、受領しました。ありがとうございます。明日、社内で確認します』

 短い文章だった。

 いつもなら、うれしくなるはずのメッセージだった。

 私は返信欄を開き、何かを書こうとした。

 けれど、何も書けなかった。

 私が編集に使った動画には、モザイクをかける前の情報がすべて入っていた。

 テスト用のアカウント名も。

 開発中の画面も。

 管理番号も。

 それだけではなかった。

 録画を始める前、私はスマートフォンで撮影した短い映像も、参考資料として同じフォルダに保存していた。

 動画の一部には、窓の外の景色が映っていた。

 撮影したときは、気にも留めなかった。

 けれど、位置情報が記録されている可能性もある。

 撮影日時。

 端末の情報。

 ファイルに残されたメタデータ。

 実際に何が含まれていたのか、どの情報がサービスに送信されたのかは、確認しなければわからない。

 私は、その「わからない」という状態に耐えられなかった。

 怖いのは、情報が漏れたとわかったことではなかった。

 漏れたかどうかさえ、わからないことだった。

 午前二時二十六分。

 私はサービスの問い合わせフォームを開いた。

 文章を考えた。

 アップロードした動画を削除してください。

 それだけでは不十分な気がした。

 元の動画は削除されるのか。

 処理用の一時ファイルはどうなるのか。

 バックアップに残る可能性はあるのか。

 第三者への提供はあるのか。

 AIの学習に利用されることはあるのか。

 私は、ひとつずつ文章にした。

 書いているうちに、自分が何をしてしまったのか、少しずつ実感が湧いてきた。

 私は、見せたくないものを隠すために、見せたくないものがすべて入ったファイルを、外部のサービスに渡したのだ。

 画面上では、確かに隠れていた。

 完成した動画には、何も映っていなかった。

 けれど、編集前のファイルがどう扱われたのかは、別の問題だった。

 午前二時四十一分。

 問い合わせを送信した。

 返事は、すぐには来なかった。

 私はパソコンの前に座ったまま、何度も受信箱を更新した。

 そのたびに、何も変わらない画面が表示された。

 午前三時を過ぎたころ、ようやく私は、提出先の企業に連絡しなければならないと考えた。

 でも、どう説明すればいいのだろう。

 動画の編集に無料サイトを使いました。

 そのサイトに、編集前のデータを送信した可能性があります。

 そのデータには、御社の未公開情報が含まれていたかもしれません。

 私は、文章を頭の中で繰り返した。

 送信すれば、仕事を失うかもしれない。

 信用を失うかもしれない。

 もう次の依頼は来ないかもしれない。

 それでも、黙っていることのほうが怖かった。

 私は担当者宛てのメールを開いた。

 最初の一文を書いた。

 消した。

 もう一度書いた。

 何度も読み返した。

 そして、ようやく送信ボタンを押した。

 今度は、送信が完了しても、少しも安心できなかった。

 午前三時十八分。

 私は椅子に座ったまま、両手で顔を覆った。

 たった数時間前まで、私は便利な無料ツールを使っていただけだった。

 難しいソフトを覚える必要もなく、パソコンの性能を気にする必要もなく、隠したいところに四角を置くだけで、動画は完成した。

 その便利さを、私は疑わなかった。

 無料であることも。

 ブラウザだけで動くことも。

 誰でも簡単に使えることも。

 何ひとつ、疑わなかった。

 机の上には、編集前の動画が保存された外付けドライブがあった。

 私はそれを見つめた。

 もう一度、ファイルを確認しようかと思った。

 けれど、今は触るべきではない気がした。何かを削除したり、設定を変更したりする前に、何が残っていて、何を確認する必要があるのかを整理しなければならない。

 私は、パソコンの電源を落とさなかった。

 ただ、編集サイトを開いたままにしていたブラウザを閉じた。

 窓の外は、まだ暗かった。

 私の動画は、すでに別の企業のシステムに送られている。

 そして、編集前のデータがどう扱われたのか、私はまだ知らない。

 数時間後、担当者から返事が来るかもしれない。

 動画編集サービスから、問い合わせの回答が届くかもしれない。

 何も問題はなかったとわかるかもしれない。

 あるいは、私が考えているよりも深刻な話になるのかもしれない。

 そのどれも、まだ起きていなかった。

 私は二十歳だった。

 便利なものを便利なまま使っていただけで、こんな夜を迎えることになるとは思っていなかった。

 そして、ひとつだけ、もう二度と忘れないと思ったことがある。

 画面の上で隠せたものが、世界から消えたとは限らない。

 私はそのことを、動画を完成させたあとで知った。